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東京高等裁判所 昭和36年(う)2595号 判決

被告人 井合勉

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

弁護人の控訴趣意について。

原判決挙示の証拠を総合すると、被告人は医師で、その肩書住居において産婦人科医院を開業しているものであるところ、原判決判示の日時場所において、看護婦の有資格者ではあるけれども家事をも担当していた妻井合礼子及び看護婦、準看護婦の資格もなく、若年で、相当回数開腹手術に立会い被告人の指示により機械的労務に服したことはあるものの看護婦としての手術介助の知識、技能及び経験も豊富とはいえない本田ツルエ(当時十九年)、西川光子(当時二十年)を介助者として、小林恵美子(当時二十七年)に対し、子宮外姙娠の治療のため開腹手術を施行することとなつたのであるが、右手術は、予めエフエドリンの皮下注射をなし、葡萄糖液及びグリコアルギンの点滴注射をなしつつ、腰椎麻酔を施し、その効果を検査し、患者の血圧、脈膊の異常などの有無を観察した後、切開手術を行うもので、高度の医、薬学的知識と技能経験を必要とするものであるところ、被告人は、右手術に際し、頭初は前記本田及び西川のみを介助者として、まず、自らエフエドリンの皮下注射をなすと共に、葡萄糖液五〇〇CCの点滴注射を開始し、右液の約半量を注射したとき、前記井合礼子も介助に加わり、被告人自らベルカンS二・二CC及びボスミン注射液〇・一五CCの混合液を使用して腰椎麻酔を施行した後、引きつづきその効果及び範囲等を検査し、麻酔による完全無痛域が凡そ臍高となつたとき、予め被告人の指示により配置についていた前記本田に対し、残量少くなつた葡萄糖液在中のアンプル中にグリコアルギンを注入するよう命じたが、右注入に備え右グリコアルギン五〇〇CC入りの新しいびん二本が予め患者の枕元に近い場所にある薬品台上に置かれ、右本田が右手術開始前機械台等の消毒のため使用した後あやまつて右薬品台上に置き忘れていた消毒用逆性石けん液(オスバン液)約四〇〇CC在中のグリコアルギンの古びんをグリコアルギン入りのびんであると誤信し、右オスバン液約一〇〇CCを数回に亘り右アンプル中に追加注入し、前記小林恵美子の静脈内に注射したため、間もなく同女がその場で同液による中毒により死亡するに至つたこと、並びにかねて被告人の医院においては、グリコアルギンの空びんに特別の表示もしないでオスバン液を入れ、平素手術室内の器具入れ棚に蔵置し、本田等において必要に応じこれをとりだして使用していたのであるが、被告人は右空びんの使用を黙認し、且つこれに特別の表示をするよう指示することもなく、本田等の使用にまかせ、また、本件手術に際し、前記エフエドリン注射直前にも、前記のように本田があやまつてオスバン液の入つたグリコアルギン用の古びんをグリコアルギンのびん等と一緒に薬品台上に置き忘れていたにかかわらず、このような事態の有無を特に点検せず、さらに、前記のように本田にグリコアルギンの追加注入を命じた際にも、特にその薬液を注視確認するなどしないで、同女の処置にまかせたことを認め得るのである。次に、原判決が、被告人の本件における産婦人科医師としての業務上の注意義務に関し、グリコアルギンの空びん等に消毒用の人体に注入されると極めて危険な逆性石けん液をみだりに入れておかないようにするとか、若し入れておいたときは、その極めて見易いところに逆性石けん液である旨を明瞭に表示しておくとか、エフエドリンの皮下注射をする直前において、さらにグリコアルギン等のびんと一緒にまぎらわしい逆性石けん液を入れたグリコアルギン用の古びんが薬品台上に置いてないかどうかを点検し、若しあつたら、これを他の適当な場所にとりかたづけておくとか、また、本田等に前記各注射液の取扱をなさしめる際には、自ら同女等のその取扱処理を充分注視し、所定の薬液であることを確認するとかなどして、深甚の注意を払つて、施術に過誤なきを期すべき業務上の注意義務があり、そしてそれがいずれも可能であつた旨判示していることは所論のとおりである。

各所論は、(一)本件のように、点滴注射用アンプルに医師より指示された薬液を注入する程度の介助行為には、特に高度の医薬学的知識や技能経験を必要とするものではないから、看護婦又は準看護婦の資格のない者を介助者として使用したからといつて、何等これを違法視すべきいわれはない、(二)グリコアルギンの空びんを利用して消毒液を入れてはならないという禁止規定はない、(三)オスバン液は薬事法にいう毒劇薬ではなく、また、毒物及び劇物取締法にいう毒、劇物でもないから、これを入れた空びんに特別の表示をする法律上の義務はなく、また、本件オスバン液を入れた空びんと新らしいグリコアルギンのびんとは、包装、栓の状態、泡立ちの有無等から容易に識別し得るものであるから、右空びんに特別の表示をする注意義務もない、(四)被告人は、本件手術着手前、薬品台上に点滴注射用グリコアルギンその他手術に必要な薬品を配列準備し、前にこの種手術介助の経験ある本田に予め点滴注射の追加注入の施行を命じておいたのであるから、すでに被告人の点検義務は果されたものであり、エフエドリン注射直前に重ねて点検する注意義務はない、(五)本件のような手術に際し、医師が腰椎麻酔にとりかかつた後は、医師の注意力は専ら患者の麻酔の程度、範囲及び麻酔シヨツクによる事故の防止に集中せられ、介助者が自己の指示した薬液を指示のとおり注入するかどうかをあらためて注視確認することは不可能であり、このような注意義務もない旨主張し、要するに、本件は介助者である本田ツルエの精神倒錯に基因する過失により惹起された稀有偶然の事故であつて、医師である被告人に前示のような業務上の注意義務を要求することは通常医師の遵守し得る注意義務の範囲を越え、高度の注意義務を負担せしめるものであつて不当であり、被告人に業務上の過失はないというのである。

よつて按ずるに、原判決は、被告人が無資格看護婦を本件手術の介助者として使用したことをもつて違法であると認めたものではなく、かかる無資格者を手術の介助者として使用する場合には、たとえ、所論のように、薬液をアンプルに注入する作業自体は機械的労務に属し、特に高度の医薬学的知識や技能経験を必要とするものではないとしても、右注入に使用する薬液の取扱については、有資格者を使用する場合に比し、判示のような、より細心の注意義務を要請されるものであることを判断する前提として、無資格者を介助者として使用した旨を判示したものであることは、判示全文を通読して明認し得るところであるから、前示所論(一)は採るを得ない。

次に、グリコアルギンの空びんを利用して消毒液を入れることを禁止し、また、本件オスバン液の容器に特別の表示を命じた法律上の規定がないとしても被告人方では家事を担当している妻が看護婦の資格を有するのみで、無資格者である本田及び西川を常に手術の介助者として使用し、消毒液の取扱は主として右本田等にまかせていたのであつて、同女等は薬学的知識乏しく、かかる薬液の取扱についても慎重を欠き、如何なる間違いを起すかも知れないことは、医師として当然予想すべきことであり、若しその取扱に処置を誤るときは患者の生命身体に不測の障害を来たす危険があることにかんがみると、平素このような危険のある消毒用オスバン液の容器として点滴注射用のグリコアルギンの空びんを使用することを黙認し、しかもこれに何等特別の表示を指示しないことは、本件のような立場にある医師としての注意義務を尽したものとはいい難く、また平常状態の下では、グリコアルギンの新しいびんと本件オスバン液の容器とが識別可能であるとしても、若し万一それらのびんが一緒に薬品台上に置いてあると、前記のように、無資格且つ若手で、経験も豊富でない本田等が、開腹手術という極度に緊迫した状況の下で、如何なる間違いを起すかも知れないことは、医師として当然予想すべきことであるから、予めこのような事態に対処し、平素薬液の取扱につき判示のような注意義務があるものといわなければならない。

従つて前示所論(二)及び(三)も採用の限りではない。

さらに、所論(四)の指摘するように、被告人が本件手術着手前薬品台上に点滴注射用グリコアルギン等を配列準備し、本田に予めグリコアルギンの追加注入を命じておいたとしても、手術準備のため消毒を担当する本田等が無資格且つ若手で、経験の乏しい者であること、被告人方で平素消毒用のオスバン液の容器としてグリコアルギンの空びんを使用し、これに特別の表示をしていないこと等、本件手術の際における具体的状況の下において、かゝる無資格者を介助者として使用する医師たる被告人としては、前記配列準備後も薬液の取扱について注意し、特にエフエドリン注射直前或いはグリコアルギンの追加注入を指示する際、重ねて判示のような点検或いは確認をなすべきである。また、所論指摘の原審証人小林隆の証言によれば、医師が開腹手術前腰椎麻酔を施した後、その効果が急上昇するような場合は、医師の注意力が患者に集中されることは認め得るけれども、所論(五)において指摘するように、腰椎麻酔を施して後は前記のような薬液の取扱に関する確認をなす瞬間的余裕のない程度に医師の注意力が専ら患者に集中されるとは認められないばかりでなく、原審証人井合礼子の証言(第五回公判期日)によれば、被告人が本田に前記追加注入を命じたときには、麻酔が一応あがるべき高さまであがつていたというのであるから、被告人は右追加注入に際し、本田の薬液取扱を確認することが可能であつたというべきである。従つて前記所論(四)及び(五)も採用できない。

要するに、原判決は、本田らが無資格者であることその他の事情にかんがみ、かかる者を介助者として子宮外姙娠の治療のため開腹手術をする医師は、平素オスバン液のような誤つて人体に注射すれば生命の危険を来たすような薬液の取扱について特別の配慮をなすと共に、同女等に注射液の取扱をなさしめる際には、自ら同女等の取扱処理を充分注視し、所定の薬液であることを確認するよう深甚の注意を払い、もつて施術に過誤なきを期すべき趣旨を判示し、それぞれ具体的な段階乃至状況に応じ、医師たる被告人の執るべきであつた措置を例示しているのであつて、原判決の右判断は正当であり、被告人のこのような過失が、小林恵美子の死亡なる結果に対し、一の有力な条件をなした以上は、本田の過失が中間に介在し、これと相まつて共同的に原因を与えたとしても、被告人の罪責に何等消長を及ぼすものではない。各論旨は理由がない。

丸山弁護人の控訴趣意第二点について。

所論は、本件小林恵美子の死因につき、原審鑑定人船尾忠孝作成の鑑定書は塩化ベンゼトニウムの中毒死であるというが、本田の使用したオスバン液の化学成分は塩化ベンザルコニウムであつて、その間矛盾があり、またこれらの致死量は医学上薬学上必ずしも明確にされていないのであるから、本件注射と被害者の死亡との間の因果関係は結局不明であることに帰し、原判決には審理不尽乃至理由不備の違法があると主張するけれども、前記鑑定書及び原審鑑定人上野正吉作成の鑑定書その他原判決挙示の証拠を総合すれば、本件中毒死の原因となつた逆性石けん液はオスバン液、すなわち塩化ベンザルコニウムであつて、船尾鑑定はこの点に限り誤つているが、いずれの薬液であつても、本件のように約一〇〇CCを人体の静脈内に注射すれば中毒死を発生させることを認めることができ、しかも原判決は本件薬液を単に逆性石けん液と判示し、その化学成分を判示していないのであるから、原判決に所論のような審理不尽乃至理由不備の違法は存しない。この点に関する論旨も理由がない。

検察官の控訴趣意について。

所論は、被告人の過失の程度、結果の重大性その他にかんがみ原判決の刑の量定は軽きに失し不当であると主張するのであるが、記録に現われた本件過失の態様、その他諸般の犯情を考量すると、被害者の夫との間に示談未成立で民事訴訟繋属中であることその他所論の諸事情を参照しても、原判決の量刑は相当であつて、所論のように軽過ぎるものとは認められない。論旨は理由がない。

よつて刑事訴訟法第三百九十六条により本件各控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡辺辰吉 司波実 小林信次)

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